2019/03/08の話:幻影数というものを初めて知った

【2019/03/04の小話:同様に確からしいってなんだ?】←関連する話

大学に入ってから今日に至るまで,ありとあらゆる数体系を知り,もはや聞いたことのない数体系などあるはずがないと思っていましたが,ここにきてはじめて聞く数体系を知りました.それは「幻影数」というものです.

非実数値確率論を調べていたところ,このような数体系に出くわしました.幻影数は,「確からしさ」が揺らいでいるような現象に対する確率モデルの中で使われているようです.

■幻影数環

幻影数は,複素数と似た体系です.幻影数は以下のような形の数です.
\begin{eqnarray}
a+\wp b
\end{eqnarray}
(この記号は[PP1]の記号を踏襲したものです).ここで $ \wp $ という記号がありますが,これは複素数で言うところの虚数単位 $ i $ に当たるもので,いまは【幻影単位】とでも呼ぶことにします.幻影数全体の成す環を $\mathbb{PH}(\rea) $ と表します.

さて,幻影数同士の演算は通常の多項式や複素数と同じようにできます.ただし幻影単位 $ \wp $ は
\begin{eqnarray}
\wp^2=\wp
\end{eqnarray}
を満たすような「$0$ でも $1$ でもないようなもの」としています.これにより幻影数 $ \mathbb{PH}(\rea) $ の加法と乗法は次のようになります:
\begin{eqnarray}
(a+\wp b)+(c+\wp d)&=&(a+c)+\wp (b+d)\kg
(a+\wp b)(c+\wp d)&=&(ac)+\wp(ad+bc+bd)
\end{eqnarray}
これにより, $ \mathbb{PH}(\rea) $ は環となります.

環論に詳しい人に対して説明すると, $ \mathbb{PH}(\rea) $ は環としては $ \rea[X]/(X^2-X) $ と同じものになっています. $ \rea[X]/(X^2-X) $ とは,実数係数多項式全体の成す環 $ \rea [X] $ において, $ X^2-X=0 $ という条件の下で一致するような2つの要素は同じものとみなした環です.

このような数体系の構成の仕方はよくあり,例えば複素数 $ \com $ は $ \rea[X]/(X^2+1) $ ですし,分解型複素数と二重数はそれぞれ $ \rea[X]/(X^2-1) $ と $ \rea[X]/(X^2) $ です.なので,正確に言うと,このような幻影数のような数体系を知らなかったというより,この数体系が有用な使われ方をされていることを知らなかったというべきです.

具体的に $ \mathbb{PH}(\rea) $ がどのような数体系になっているのか,若干の性質をみてみましょう.まず, $ \mathbb{PH}(\rea) $ には零因子が存在します.つまり
\begin{eqnarray}
\alpha\cdot\beta =0
\end{eqnarray}
となるような, $ \alpha\neq 0,\beta\neq 0 $ が存在します.例えば
\begin{eqnarray}
(1-\wp )\wp=0
\end{eqnarray}
です.環論の言葉ではこの事実を「 $ \mathbb{PH}(\rea) $ は整域ではない」と表現します.

次に,逆数を持つような幻影数を調べてみます.つまり $ a+\wp b $ に対して
\begin{eqnarray}
(a+\wp b)\cdot\gamma =1
\end{eqnarray}
となる $ \gamma\in\mathbb{PH}(\rea) $ が存在するような, $ a+\wp b $ の条件を求めてみましょう. $ \gamma =c+\wp d $ とすると上の式 $ (a+\wp b)\cdot\gamma =1 $ は
\begin{eqnarray}
(a+\wp b)(c+\wp d)&=&1\kg
ac+\wp(ad+bc+bd)&=&1
\end{eqnarray}
ように書けるので,実部と幻影部は
\begin{eqnarray}
ac&=&1\kg
ad+bc+bd&=&0
\end{eqnarray}
を満たしていなければなりません.この時点で $ ac=1 $ により $ a\neq 0 $ でなければならないことはわかります.またこの2つの条件式から
\begin{eqnarray}
c&=&\frac 1a\kg
d&=&-\frac{b}{a(a+b)}
\end{eqnarray}
となります.以上より, $ a\neq 0 $ かつ $ a+b\neq 0 $ であれば $ a+\wp b $ の逆数が存在し,
\begin{eqnarray}
\frac{1}{a+\wp b}=\frac 1a-\wp\frac{b}{a(a+b)}
\end{eqnarray}
となることがわかります.

また幻影数においては,複素数のときと同様に共役が定義されます.複素数体 $ \com $ のときは
\begin{eqnarray}
\overline{a+ib}=a-ib
\end{eqnarray}
という定義でしたが,幻影数環 $ \mathbb{PH}(\rea) $ に対して共役は
\begin{eqnarray}
\widehat{a+\wp b}=(a+b)-\wp b
\end{eqnarray}
と定義されています.この共役の定義は複素数とはまったく異なるものに見えてしまうかもしれません.しかし次のように考えることができます.複素数における虚数単位 $ i $ は
\begin{eqnarray}
X^2+1=0
\end{eqnarray}
を満たすものです.この方程式を満たすものは他に $ -i $ もあります.共役とは, $ i $ という数を,「それを定義するための方程式( $ X^2+1=0 $ )」のもう一つの解 $ -i $ に置き換える操作なのです.これを幻影数環 $ \mathbb{PH}(\rea) $ について考えてみると,幻影単位 $ \wp $ は
\begin{eqnarray}
X^2-X=0
\end{eqnarray}
を満たすようなものです.この方程式を満たすものは他に $ 1-\wp $ があります(実際 $ (1-\wp)^2-(1-\wp)=(1-\wp)-(1-\wp)=0 $ となります).これにより, $ \mathbb{PH}(\rea) $ の共役は $ \wp $ を, $ X^2-X=0 $ のもう一つの非実数解 $ 1-\wp $ に入れ替える操作と定義されます.これで,共役を取る操作も複素数のときの類似になっていることがわかります.

これは体論の代数拡大の文脈で登場する,「代数共役」という考え方になっています.(正確には幻影数環 $\mathbb{PH}(\rea)$ は体にはなっていませんが…)

このように $ \mathbb{PH}(\rea) $ に共役を定義することによって
\begin{eqnarray}
z+\widehat z\quad z\widehat z
\end{eqnarray}
などが実数になってくれます.

■幻影確率論

幻影数がどのように確率論に応用されているのか.私もまだ勉強中で,おおざっぱなことしかいえませんが,以下のようなことだと考えられます.

通常の確率は必ず $ 0 $ から $ 1 $ までの実数値をとりますが,幻影確率論というのは,上に紹介したような幻影数 $ \mathbb{PH}(\rea) $ に値をとります.そして幻影数 $ a+\wp b $ の幻影部に,古典的な確率論とは違う意味を持たせているらしいのです.

少し数学的なことをいうと,確率は $ \mu(\Omega)=1 $ となるような測度空間 $ (\Omega,\mathcal F,\mu) $ において, $ \mathcal F $ の要素 $ A $ に対する $ \mu(A) $ の値として定義されるものでした.確率を表す測度 $ \mu:\mathcal F\to [0,1] $ の値域を $ \mathbb{PH}(\rea) $ に設定することによって,幻影確率空間 $ (\Omega,\mathcal F,\mu) $ を考えることができるようになるそうです.

文献 $ [PP1] $ を参照すると,以下のような例が見受けられました:アンフェアなコインがあり,このコインの表がでる確率は $ 0.4 $ から $ 0.6 $ まで試行の度に変動するとします(もしくは確からしさの情報がそれしかないと表現してもいい).このような状況を表す幻影確率空間のモデル $ (\Omega,\mathcal F,\mu) $ として
\begin{eqnarray}
\Omega &=&\jb{表,裏}\kg
\mathcal F&=&2^\Omega\kg
\mu(\es)&=&0+\wp 0\kg
\mu(\jb 表)&=&0.4+\wp 0.2\kg
\mu(\jb 裏)&=&0.6-\wp 0.2\kg
\mu(\jb{表,裏})&=&1+\wp 0
\end{eqnarray}
のようなものを考えることができるそうです.

ここから察するに,幻影数の幻影部分は確率論において,確からしさのゆらぎであると解釈できるのかもしれません.

また文献[PP1]では,「確からしさの情報が一切ない」という状況を示す確率空間も考えられており,その場合,幻影部は $ 1 $ になっています.

■参考ページ・文献

エキゾチック確率論(非実数値確率論)の文献を集めたページがこちらです:Saul Yourssef, “Exotic Probability Theories and Quantum Mechanics: References”

幻影数と幻影確率論について詳しく解説した文献がこちらです:
[PP1] Yehud Izhakian, Zur Izhakian(2009) “Phantom Probability”

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